【週報巻頭言】2021年9月19日 心には真実の言葉があり(詩編15編1~5節)
詩編15編2節に「心には真実の言葉があり」とあります。ここで言われていることは、その人の心に真実の言葉があるということでしょう。私たちはどうでしょうか?自分の心に真実の言葉があるでしょうか?「私はできる限り、真実を求めて生きてきた。真実を語ることに努めてきた」。そのように言われる方があるかもしれません。しかし、ここで言われている真実というのは、私という人間の真実のことでしょうか?もし、そうであるならば、私は自分が真実を求め、真実を語ってきた、とは言えません。何と、自分は不誠実なことだらけだろうか、と穴があったら入りたくなるような思いです。
この「真実の言葉」ですが、私は神さまの真実であるとか、真実である神さまの言葉というふうに理解したいと思うのです。すると、「心には真実の言葉があり」。これは私たち誰にでも当てはまることではないかと思うのです。私たち自身は、神さまの前に真実に生きているかどうか、もし、問われるなら、はい!とはっきりとは答えることはできないかもしれません。でも、このことは答えることができるのではないでしょうか?私の心に神さまが語っておられる。それが「心には真実の言葉があり」ということなのです。
私たちは真実に生きることができないでいる、不誠実と思えるような毎日かもしれない。けれども神さまはそういう私たちに語りかけておられる。私たちの心に語りかけ、私たちと共にいてくださる。だから、この「心には真実の言葉があり」という短いひと言が、私の慰めであり、励ましとなります。そして、生きる力となるのです。
「心には真実の言葉があり」。この言葉は別の訳ではどのように訳されているでしょうか。口語訳聖書では「心から真実を語る者」、新改訳聖書は「心の中の真実を語る人」とありました。新共同訳では、私たちの心に神さまの言葉が語られている。私たちの心に神さまの言葉がある。そのように言っているように私は聞きます。さらに、口語訳や新改訳の言葉からは、その言葉を語れ、人々に語れ、と言われているように聞きます。真実の言葉、神さまの言葉が与えられた私たちはさらにこの言葉を語り伝えるように召されているのです。
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